1: 鴉 ★ 2019/12/13(金) 20:18:37.81 ID:CAP_USER
なぜ日本は、韓国に対して「上から目線」になってしまうのか
近世から近代までを振り返る
プロフィール
京都府立大学准教授:川瀬 貴也
1971年、大阪府生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。京都府立大学文学部准教授。専攻は宗教学・日韓近代宗教史。著書に『植民地朝鮮の宗教と学知 帝国日本の眼差しの構築』
●残存する「古いレイシズム」
「戦後最悪の日韓関係」という言葉が残念ながら常套句と化している昨今だが、この関係悪化の背景には、やはり歴史的に積み重ねられた日本側の韓国(朝鮮)に対する軽視・蔑視・差別感情があることも否定できないだろう。
近年、民族・人種差別(レイシズム)に関しては、「古いレイシズム(ある民族や人種を生来的に劣ったものと見なすタイプ)」と「新しいレイシズム(差別は解消されているはずなのに、ある民族や人種が不当な特権を得ているものと見なすタイプ)」が論じられている。現在進行しているのは主に後者だと言われているが、韓国に対するいわゆる「嫌韓」的なものを見ると、古い形のレイシズムが決して看過できないものであるのも明らかであろう*1。
そこで本稿では、近世から近代(終戦まで)にかけての日本側の朝鮮(韓国)観――今風の言葉を敢えて使えば「上から目線」――の来歴を振り返り、現在の我々がいかにそれを「受け継いでしまっているのか」ということを考える一助としてみたいと思う。
● 朝鮮通信使の「裏面」
近世の朝鮮通信使はいわゆる「善隣外交」のモデルとして見なされてきた。この朝鮮通信使は、秀吉の朝鮮侵略後の国交回復を模索する中で生まれた。1607年から1811年まで計12回、朝鮮使節は来日したが(「朝鮮通信使」という対等外交を意味する名称は4回目から)、その名目の大半は新将軍の就任の「慶賀」であった。
朝鮮通信使は日本に招かれ、その道中で歓待を受けたり、日本の儒者や文人が儒学および漢詩などの教えを請いに来たりするなど(通信使メンバーは、科挙を通過した儒学エリート)の文化交流の側面もあったが、これはいわば「表面」である。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69114
3: 鴉 ★ 2019/12/13(金) 20:19:29.06 ID:CAP_USER
まず通信使が「新将軍の就任」の時に招かれたのは、江戸幕府の思惑として「日本の将軍の徳を慕って朝鮮国王の使者が挨拶しに来る」という上下関係、つまり「日本型華夷秩序」を少なくとも国内的に示すために利用したからである(新将軍就任時には、同様に琉球からもその名の通り「慶賀使」という使節が送られた)。
建前として日朝は対等な外交関係だったのだが、自らの「上国意識」を確認するかのように、江戸幕府は朝鮮通信使に日光東照宮の「参詣」を強要したり(神格化された家康を他国の使節に拝ませる、ということはどのような意味を持つかは明白)、京都の方広寺(秀吉が建立した寺であり、その前には「耳塚」がある)での饗応を強要したりと、ある意味「ハラスメント」的な対応をおこなっている*2。朝鮮通信使の歴史には、このような「裏面」もあったのである。
18世紀後半になると、日本の特殊性を強調する国学思想の台頭や、日本儒学の進展(朝鮮儒学への憧憬が相対的に減じた)もあり、朝鮮への蔑視が強まっていく。この流れが、対外的危機意識の高揚と合流し、幕末維新期からの「征韓論」的発想へと繋がっていく。
● 幕末維新期の朝鮮観
アヘン戦争(1840-42)以降の東アジア世界においては、対外危機の意識が高まった。日本においては「尊皇攘夷」から最終的に「開国」へと思考が転換され明治維新を迎えるが、その時代状況の中で、外圧の捌け口をアジア諸国に求めていこうとする議論が展開される。その一例として、吉田松陰の発言が挙げられる。松陰は
朝鮮を責めて質を納いれ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし(『幽囚録』)
取易き朝鮮・満洲・支那を切り随へ、交易にて魯国に失ふ所は又土地にて鮮満にて償ふべし(兄杉梅太郎宛書簡 安政2年4月24日)
などと述べ、朝鮮を足がかりにアジアに進出することをあからさまに説いている。この文面に朝鮮蔑視観があることは言うまでもないだろう。
8: 鴉 ★ 2019/12/13(金) 20:20:26.43 ID:CAP_USER
松陰の議論は激情から書かれた粗雑なもので、当時としてはまさに「机上の空論」に過ぎなかったが、彼の教えを受けた明治の元勲たち(木戸孝允、伊藤博文ら)により、ある意味成就されることになった。
なお、上記の松陰の書簡には「古の盛時の如く」とあるように、神功皇后の三韓「征伐」など、神話を持ち出し日本の朝鮮に対する優位性を説くという姿勢も見られる。これは明治以降、「古代において日本は朝鮮を支配しており、一体であった」とし、朝鮮侵略を合理化する「日鮮同祖論」の前駆形態とでもいうべきものである。
周知のように、明治初期には「征韓論」が唱えられたが、結局政府内での反目もあり(明治六年の政変)、本格的な出兵には至らず、その代わりにいわゆる砲艦外交(江華島事件)によって朝鮮を開国させ、日朝修好条規が締結された。
これ以降、日本の朝鮮に対する視線は、福沢諭吉の「脱亜論(1885年)」的視点、すなわち文明論的な朝鮮蔑視観が主流となる。すなわち、ほかのアジア諸国に先んじて開国し、文明開化を図った日本は「半開」、朝鮮を含むその他のアジア諸国は「因循いんじゅん固陋ころう」で「未開」と位置づけ、アジア内での日本の優位性を説くものである。
まとめるならば、朝鮮を見下し、「道具(大陸進出の足がかり、不平士族の捌け口)」として扱うという姿勢が幕末維新期の朝鮮観には見られたといえよう。
13: 鴉 ★ 2019/12/13(金) 20:21:05.59 ID:CAP_USER
●アジア主義の陥穽
では、近代日本の朝鮮に対する姿勢は上記のような高圧的且つ侵略的なものばかりだったのだろうか。ある人は「いや、アジア諸国・諸地域の連帯を説くアジア主義が存在した」と言うかも知れない。しかし、このアジア主義も残念ながら、朝鮮に対する差別感の脱却にまでは至らなかった。このことを、樽井たるい藤吉とうきち(1850-1922)という人物が書いた『大東合邦論(1893年発行)』という書物から考察してみよう。
この『大東合邦論』の内容を大まかに言うと、現在弱い国同士である日本と朝鮮が「合邦」して国号を「大東」とし、清(中国)と同盟を結び、欧米列強のアジア侵略に対抗しようというものであった。この書は漢文で執筆され、中国人、朝鮮人の読者も多かったと言われる。この書の興味深い箇所を挙げてみよう。
東方の時運を熟察するに、鶏すでに鳴き、天まさに曙あけんとするの辰ときなり。わが日本は亜洲の東極に位す。よろしく先覚者となり、もって友国の迷夢を破り、これを富強開明の域に導くべし*3
この部分から判るように、実はこの書も福沢の「脱亜論」からそれほど遠くないのは明白である。つまり文明開化(脱亜入欧)した「先覚者」たる日本が導く、という論理である。そして平和裏に両国が「合邦」できたならば、
我は兵を用いずして朝鮮を取るなり。朝鮮もまた兵を用いずして日本を取るなり。一将の功成らずして、万人の骨枯るるなし。兵争に費すの資をもって、朝鮮の開明を誘みちびかば、これ怨うらみを買わずして徳を樹たつるなり。合邦はあに日本の不利にならんや*4
と述べるのだが、急速な日本の発展および日清、日露戦争の勝利は、このような弱いもの同士の連帯という「机上の空論」を吹き飛ばしてしまった。
17: 鴉 ★ 2019/12/13(金) 20:21:39.39 ID:CAP_USER
とくに日露戦争に(かろうじて)勝利し、朝鮮に対する支配権を獲得した日本はますます「日本盟主論」を高唱し、独善性を深め、最終的に「大東亜共栄圏」というアジア主義に名を借りた「大日本主義」に陥るのである。「アジア」から脱却したという理由で「アジアの盟主」たらんとした日本、ここにアジア主義の根本的矛盾と陥穽があったのである。
なお、この『大東合邦論』には後日談がある。日露戦争後に「日韓合邦運動」を推進しようとしていた一進会という団体のトップだった李容九*5という人物は、この書を読んでそれに共感した、と述べているのである。この証言は、その一進会と協力関係にあった玄洋社・黒龍会(福岡の国権主義団体)の残した記録*6なので多少割り引かねばならないだろうが、少なくとも朝鮮半島を奪い取る際の良い口実にされてしまったことは否めない。
●植民地化以降の朝鮮人観
日本が1910年に朝鮮半島を植民地にして以降の朝鮮人に対する「上から目線」は、とくに説明する必要もないだろう。いな、文明主義的な視線は、植民地化以前から継続し、それは終戦まで変わることがなかった、というべきであろう。
多くの日本人が植民地朝鮮に移住し、朝鮮人も多くは低賃金労働者として日本に渡り、双方の接触は格段に増えた。そこで相互理解が深まればよかったのだが、そうはいかず、「内地」でも植民地でも、一般人による朝鮮人差別は横行した。
1919年の「三・一独立運動」の際に、朝鮮に在住していたある牧師は「暴動は鎮圧すべし、鎮圧できぬのは朝鮮人の精神であります」との卓見を示し、続けて「朝鮮などに来て居るものは婦女子に到るまで威張ることを知て愛することを知りません。取り立てることを知て与へることを知りません(「朝鮮の事変について」、『福音新報』1919年5月8・15日)」とまで発言したほどである。
朝鮮人差別を継続していた日本人は、関東大震災の時、朝鮮人たちが「この機会に復讐するであろうこと」を確信したがゆえに、「朝鮮の新同胞」のような「建前」をかなぐり捨てて、虐殺に走ったのである。
22: 鴉 ★ 2019/12/13(金) 20:22:20.59 ID:CAP_USER
学問的な側面でも、朝鮮文化について、様々な分野の学者が熱心に研究を進め(植民地支配にとって、植民地の調査は当然の活動である)、彼らの研究によって例えば「朝鮮には終ついに朝鮮仏教起らざりき(京城帝国大学教授 高橋亨)」といったような、朝鮮文化の独自性を否定する強烈な負の「朝鮮イメージ」が形成されたことも見逃せないだろう*7。私はこれを「日本型オリエンタリズム」と呼んでいるが、学問も差別、偏見に加担してしまったのである。
最後に昭和初期に朝鮮憲兵隊司令部より出されたパンフレットを紹介しよう*8。これは、
朝鮮統治の静謐せいひつを破り、朝鮮の人心を紊みだるものは、所謂共産主義思想でも社会主義機構でも、独立思念でもない、無思慮無分別なる内地人の軽率なる言動にあるといつても過言ではなからうと思ふ(はしがき)
と、日本人(内地人)による朝鮮人差別の実例を並べて告発したものだが、このようなパンフレットの必要性を憲兵隊が感じるほどに、日常的に凄まじい差別が横行していたわけである。試みに、このパンフレットの目次からいくつか拾ってみよう。
「内地人と思つて丁寧に散髪し後で朝鮮の人だと知つて侮辱す」「火事と聞いて駆け付けたが朝鮮の人の家と判つて皆引返す」「朝鮮の人と聞いて今は忙しいと診察を拒絶したお医者さん」「『朝鮮人の頭は犬と大した相違はない』と侮辱す」などなど…。
もうこれで十分であろう。このような実情を糊塗するために朝鮮においては「一視同仁」「内鮮融和」というスローガンが虚しくこだましていたが、そのスローガンを最も信じていなかったのは他ならぬ日本人たちであった。
ここまで駆け足で日本人の朝鮮蔑視観を振り返ってみた。冒頭でも触れたが、最近の韓国・朝鮮(人)に対するいわゆる「ヘイトスピーチ」を見ると、「新しいレイシズム」と並んで、今まで紹介してきたような「古いレイシズム」がまたぞろ復活してしまったかのような印象さえ受ける。「歴史は繰り返す」という常套句を捨てるためにも、今一度歴史を振り返ることも必要だろう。
*1 インターネットの在日コリアンに対する新旧レイシズムを分析した研究として高史明『レイシズムを解剖する―在日コリアンへの偏見とインターネット』勁草書房、2015年、参照。
*2 詳細は須田努「通信使外交の虚実」、趙景達編『近代日朝関係史』有志舎、2012年、参照。
*3 ここでは竹内好による書き下しを用いた。竹内好編『アジア主義(現代日本思想大系9)』筑摩書房、1963年、115頁。
*4 同上、118頁。
*5 この人物の伝記として、西尾陽太郎『李容九小伝』葦書房、1978年、参照。
*6 黒龍会編『東亜先覚志士記伝 中巻』原書房、1966年、31~2頁。
*7 詳細は拙著『植民地朝鮮の宗教と学知』青弓社、2009年、第4章、参照。
*8 朝鮮憲兵隊司令部編『朝鮮同胞に対する内地人反省資録』1933年。
引用元: ・【現代ビジネス】なぜ日本は、韓国に対して上から目線になってしまうのか[12/13]